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zoom RSS Medal of Honor -米軍最高の名誉勲章を受けた日系人-

<<   作成日時 : 2005/12/26 17:05   >>

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Medal of Honor

名誉勲章 (めいよくんしょう Medal of Honor)とは、アメリカ市民を代表して大統領から直接授与される勲章である。米国軍人(陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊)に贈られるものとしては最高位。議会栄誉章とも言う。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


The Medal of Honor is the highest award for valor in action against an enemy force which can be bestowed upon an individual serving in the Armed Services of the United States. Generally presented to its recipient by the President of the United States of America in the name of Congress, it is often called the Congressional Medal of Honor.
Congressional Medal of Honor Society
http://www.cmohs.org/medal.htm

画像



アメリカ合衆国最高の栄誉である、メダルオブオナー。
1862年に制定されて以来、現在に至るまで2回受賞した19人を含む、約3400人しか受賞に至って居ません。
この受賞者の中に1人の日系人が居ました。

Private Sadao S Munemori  サダオ・ムネモリ二等兵

今回はサダオ・ムネモリと日系人で構成された「第100歩兵大隊・第442連隊」について紹介したいと思います。




1941年12月8日(ハワイ時間では7日)の日本軍によるハワイ軍港、真珠湾の攻撃は、ハワイの日系社会を一変させることになりました。即日、夜間外出禁止令がハワイ全土に敷かれ、日系人のうち、各団体の責任者や日本語新聞関係者など、日系社会の指導的立場の者たち約2000人が逮捕拘束され、そのうち700人ほどがアメリカ本土の収容所に送られてしまいます。もちろん、そのほとんどは、日本国籍だけの移民一世だったことは言うまでもありません。

 日系一世の中でも、指導的な立場にあって、皇民思想を堅持していた保守派の人たちが日系社会から隔離されたため、それまで抑え込まれていた日系二世たちのアメリカ母国意識、つまりアメリカへの忠誠意識が急速に高まっていくことになります。そうした日系社会の変化を象徴するように、皇民思想を鼓舞していた日本語新聞も、親米的な論調に変わってしまいます。

 このような日系社会の変化にもかかわらず、ハワイの軍当局は日系人に対する警戒心を持ち続けていました。真珠湾攻撃当時、各島の沿岸警備に当たっていた、現役の日系二世兵士は1000人以上もいて、そのほかにも、予備役の者も現役兵以上の数がいましたから、日本軍がハワイに上陸してきたら、これらの日系兵士が呼応するのではないか、ということを恐れたのです。

 1942年5月、ハワイの日系現役兵士1400人が秘密裏にオアフ島の陸軍基地に集められ、ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイに送られてしまいます。そこで、この兵士集団に第100大隊という隊名が付与されます。アメリカ陸軍では、三つの大隊で歩兵連隊を構成しているのですが、第100大隊は、どこの連隊にも所属しない、独立の大隊として編成されたもので、第100大隊という隊名も、本来はありえない名称だったのです。


アロハwebかわら版より
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/041202/

ハワイでは古くから日系人が居たこともあり、米国本土に比べれば比較的緩い「統制」でした。
米国本土では1942年2月19日にルーズベルト大統領が大統領令9066号(Executive Order 9066)に署名。これにより、裁判や公聴会なしに特定地域から住民を排除する権限を陸軍に与えられました。法的にも日系アメリカ人の強制収容にお墨付きがなされた訳であり、以後日系人への資産没収、強制移送が加速していきます。

 1942年3月2日、デウィット将軍(General John L. DeWitt)は、日本人の血が8分の1以上入っている人々に対して、太平洋沿岸各州の西半分とアリゾナ州の南から立ち退くよう命じた。8分の1というと、曽祖父の代に1人でも日本人がいればこれにひっかかるわけだ。在米日系人約126,000人のうち110,000人以上がこの命令の対象となったとされる。そしてこのうち3分の2は、アメリカで生まれ、市民権を持つ二世であった。

http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
「日本人」が、「日系人」になる瞬間――。

* ちなみに、同じ敵性国民だったにも関わらず、ドイツ人、イタリア人に対する集団強制収容はありませんでした。(拘留等はありましたが)


■ 日系アメリカ人強制収容所のデータはこちらを参照

http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/internfs_jp.html
全米日系人博物館



 こうして決定した強制収容は、おとなしい日系人たちの協力によって驚くほどスムーズに実行された。彼らの多くは通知に従って登録をし、自ら集合場所におもむいて粛々と命令に従ったという。やっとの思いで築きあげてきた財産を、足元を見て買い叩く中国人たちの手に残し、身の回りのものだけを詰めたバッグを手に、日系人たちは列をつくって収容所にむかった。強制収容が円滑に行われた究極の要因は、こうした日系人たちの従順さにあったといえるだろう。

 しかし、すべての日系人が無抵抗だったというわけではない。強制収容命令への服従を拒否し、訴訟を起こすという勇気ある試みがいくつかなされた。いずれも敗訴に終り有罪の判決を受けるという結果に終わったが、彼らはこうした穏健なやり方で個々に問題を提起したのである。

 また、マイク・マサオカを中心とした二世リーダーたちの運動も注目に値する。日系人全員を追放するなどという暴挙をなんとかして阻止しなければならないと考えた若者たちは、苦肉の策に出た。一世の親たちは日本人なのだから収容もやむをえない。彼らを人質として差し出し、その代わりに息子たちは「二世だけの部隊」を結成して戦場に赴き、敵国日本と戦う――。こんな決死の建白書を、二世たちは陸軍省に提出したのである。アメリカへの忠誠心を懸命にあらわそうとした彼らの、あまりにもまっすぐな決意だった。それに対する陸軍省の回答は、非情にも「ノー」。強制収容は予定どおり、市民非市民にかかわらず日系人すべてに対して行われた。


 どうにかして、日系アメリカ人が「アメリカ人」であることを証明したい。収容所に入れられても、排斥を受けても、それでも「自分の国」に対する忠誠を示したい――。1942年11月24日、マイク・マサオカらを中心とする二世グループのJACLはソルトレイクシティーで大会を開く。二世の志願兵を募り日系人部隊をつくろうという決議がなされ、陸軍省に建白書が提出された。この進言は、実は2回目のものであった。強制収容が現実のものとなる直前に、アメリカ市民である二世までが収容されることを否としてこの決死の案が提出されたのだが、無情にも却下されていたのである。
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
「日本人」が、「日系人」になる瞬間――。より抜粋



日系アメリカ人の強制収容が一段落した1943年、ようやく彼らの願いは聞き届けられることになる。

陸軍省はJACLの進言を入れて、日系アメリカ人のみの部隊をつくることを発表。各地の収容所には俗に忠誠登録と呼ばれる質問状が配られ、日系二世兵の志願を募った。

日系アメリカ人達の覚悟は想像を絶します。
自分達がアメリカ人であることを文字通り「命を張って」証明しなければならなかったのです。

その覚悟は連隊の死傷率にも如実に現れています。
大戦を通して、第442連隊(第100歩兵大隊を含む日系人部隊)の死傷率は314%でした。
もともと1300人程度であった第100大隊は、900名以上もの死傷者を出して第442連隊に編入されます(第442連隊も日系人のみで構成)。
そして、第442連隊総計で18,000近くの勲章や賞を受けていますが、その殆どが名誉戦傷章でした。
その死傷率の高さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれていたそうです。


第442連隊の戦歴を少し紹介すると、

1943年9月29日 野球の有名選手だったシゲノ・ジョー・タカタが、第100歩兵大隊で最初に戦死。殊勲十字章を日系兵士として最初に受ける。

1944年3月26日 第100歩兵大隊が、グスタボ・ラインとローマ間の第2前線の拠点であるアンチノに上陸。第100歩兵大隊は4月にアンチノを攻撃、ローマに進撃した。ローマは6月5日に陥落。
* 日系人部隊をローマ解放一番乗りさせたくないという政治的な判断により、ローマへ目前の10キロの地点で突如停止命令が下る。

1944年6月26日 442部隊は第100歩兵大隊を含め、第5軍第34師団に配属され、戦闘に参加。ベルベデーレに進攻を開始する。

1944年9月26日 442部隊がナポリを出発、フランスへ向かう。

1944年10月26−31日 442部隊が、退路を絶たれ敵軍に囲まれていたテキサス大隊「失われた大隊」を救出。この戦闘では、211名の命を助けるために、800名の二世兵士が死傷した

1944年11月22日 100大隊がビフォンテインを攻略。この戦闘で多くの死傷者を出した。 

1945年3月 522野戦砲兵大隊が442部隊から離れ、第7軍を援助して、中部フランスとドイツの間のジークフリート要塞線で戦うために送られる。

1945年3月28日 442部隊はフランスからイタリアへ転戦。




日系人部隊の戦史の詳細に関しては、以下のサイトをご覧ください。
(まだ工事中の箇所もありますが)

米陸軍第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団---日系二世米兵の第二次世界大戦
The 100th Infantry Battalion & The 442nd Regimental Combat Team
http://hawkeye.m78.com/batllefield.htm




メダルオブオナーを受賞したサダオ・ムネモリ二等兵は、カリフォルニアに移民である日本人夫婦の間に生まれた日系二世でした。
日系人部隊である第100歩兵大隊古参兵として数々の激戦を潜り抜けて来たベテラン兵であり、受賞のきっかけは終戦間際の4月5日、ドイツ軍の丘陵陣地ゴシックラインに向けて攻撃中の事でした。

以下、物語調ではありますが、引用させて頂きます。

 1945年4月。サダオは100大隊の古参兵として皆の信頼を集めていた。サダオの所属する100大隊A中隊第2小隊の中で、部隊設立時から生き残っている者は極僅かであり、その者達全員が歴戦の勇士であったからだ。
 かつてアメリカ本土で共に訓練を送った友人は、そのほとんどが命を落としているか重傷を負って本国に送還されていた。サダオのような経験豊富な兵は下士官、時には士官の地位を与えられるのが常だが、彼はあくまで二等兵として最前線で銃を撃つ役目を選んだ。自身の身を危険に晒して仲間の為に戦うサダオは部隊の勇者として誰からも好かれる存在となっていた。
 ドイツ降伏が噂され、誰もが故郷への帰国を望んでいた春。「もしかしたら生きて故郷に帰れるかもしれない」サダオ達は希望を胸に一日を過ごしていた。戦後、日系人達の地位を回復させる為の運動やそれぞれの夢を語りつつ、ニセイ達は終戦の時を待った。
 そんな折、突如442連隊に連合国総司令官アイゼンハワー大将直々の命が下された。イタリア北部でいまだ強力な防衛線を築いているドイツ軍の掃討作戦を命じられたのである。
 イタリア北部には「ゴシックライン」と呼ばれるドイツ軍の防衛線が築かれていた。これを攻略すべく黒人だけで編成された部隊「バッファロー部隊」が任務に就いていたのだが、彼等は五ヶ月間全く戦果をあげておらず、司令部から失敗の烙印を押されていた。アイゼンハワーは黒人部隊に活を入れるべく、彼らと同じ境遇の日系部隊を差し向けたのである。
 多大な期待と嫉妬を受けゴシックライン攻略に挑む442連隊。サダオは第2小隊の実質的な指揮官として、第一波の攻撃に加わった。「あと少しで戦争が終わるって言うのに、俺達はまだ戦わなければならないのか」ニセイ達に不満が無いといえば、それは嘘だろう。だが彼等が戦わなければ黒人部隊が死ぬことになるのだ。黒人でも白人でも、同じアメリカ人が死ぬのを見ていることは出来なかった。ニセイ達は最後の戦いを完遂すべく、ゴシックライン攻略作戦の任務に就く。
 1945年4月5日。442連隊はゴシックラインに向けて総攻撃を敢行した。丘陵に陣取るドイツ軍に向かって砲兵部隊が10分間の全力射撃を行った後、歩兵部隊が肉薄するという戦法が取られた。
 砲撃によって穴だらけとなった斜面を進むサダオ達。対するドイツ軍は各所に据えた機関銃陣地から激しい銃撃を浴びせてきた。たちまちサダオの前を進む分隊長が撃たれ、周囲の味方は次々と数を減らしていった。
「分隊長がやられた!代わりに俺が指揮を執る!」
 二等兵であるサダオに指揮権は無いが、サダオの言葉に異を唱える者などいない。周囲の味方は一斉にサダオの指揮下に入り、敵の銃撃をかわしながら先へ進んだ。
 サダオは分隊を率いて巧みに敵へと肉薄。砲弾で出来た穴に分隊員を隠したサダオは、目前の機関銃陣地を指差し「俺が潰して来る!」自動小銃を片手にたった一人で突撃した。
 味方から悲鳴が上がり、たちまちサダオに銃弾が撃ち込まれた。だがその銃弾の一発もサダオに当たらない。
 サダオは自動小銃を乱射し敵二名に重傷を負わせ、三名を射殺した。この機会を見逃す442連隊ではない。たちまち後続の味方が前進を開始し、敵の防衛線の一角を切り崩し始めた。
 「やった!やったぞ!」穴へ駆け戻るサダオに向けて仲間から惜しみない賞賛の言葉が投げかけられる。分隊員達はサダオの奮戦に大いに勇気付けられ、穴から出て進撃を再開しようとした。だが次の瞬間……。
 ゴン、という音と共にサダオのヘルメットに何かが当たった。その何かは穴の中へ転がっていき、シュウシュウと音を立てた。
 「手榴弾だ!」誰かが恐慌に満ちた悲鳴を上げた。
 穴の底にドイツ軍の柄付き手榴弾が転がっていた。この手榴弾が狭い穴の中で炸裂すれば、分隊員全員が死ぬだろう。慌てて穴の中から飛び出ていく分隊員達だったが、二名ほど逃げ遅れていた。穴の淵で手榴弾を見つめるサダオ。その目に仲間と手榴弾が映る。
 迷いは無い。サダオは穴の中に身を躍らせた。そして肩と頭で抱え込むようにして、手榴弾の上にその身を覆い被せた。仲間の目が驚愕に歪み――。

 直後、サダオの身体の下で、手榴弾が炸裂した。

 「サダオー!」穴の中に残っていた二名はサダオに駆け寄った。二名に怪我は無い。手榴弾の爆風も破片も、全てサダオの身体が吸収したのだ。異変に気付いた周囲の味方が駆け寄り、誰もが驚愕の悲鳴を上げた。
 

 彼の死は作戦の立案者であるアイゼンハワー将軍の耳にも届く事になります。
この頃には、孤立したテキサス大隊救出等、第442連隊の実績は広く軍内でも知られていました。
軍内だけでなく、米国国内でも、こうした活躍は報道されていました。
そして、合衆国議会は一つの答えを示します。

サダオ・ムネモリに対して合衆国最高の勲章である議会名誉勲章を授け、彼の功績を永久に讃える

 一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章。弾圧の中にある日系人に対して、それが贈られる事になるとは誰一人として想像すら出来なかった。
 サダオ・ムネモリは自らの勇気と献身によって議会名誉勲章を手にした。その瞬間、日系人と白人の間に垣根は無かった。サダオは一人の「アメリカ人」として最高の賞を手に入れたのだ。
 サダオの死から一ヵ月後の1945年5月7日。ドイツは連合国に無条件降伏し、戦争は終わった。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/other_medalofhonor.htm


しかし、日系人の命を張った合衆国への貢献にも関わらず、日系人への偏見はなかなか解消されませんでした。
真の意味でのアメリカ人として、認められるには60年代の公民権運動を待たなければなりませんでした。

ただ、表立った動きはありませんでしたが、彼らの功績は水面下で確実に米国人の意識に変化をもたらしていました。次のエピソードはもたらされた「変化」の一つです。

1959年にハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。その州昇格の賛否を問う連邦議会で、日系人が多いことを理由に、当初反対に回っていたテキサス選出議員が、442連隊がテキサス師団を救出した話を聞き、賛成に回ったというエピソードも残されています。
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/050303/



どの国や社会でも、新参者の移民に対する偏見や差別は存在します。
まして、戦争を行った当事国同士の移民ならば、尚更です。

その差別や偏見をいかに廃していくのか。

日系アメリカ人社会は祖国アメリカに貢献することで認められようとしました。
そして、アメリカ人と同等、いやそれ以上の働きを示す事でアメリカ社会の尊敬を勝ち得たのです。

フランスの暴動にしても、在日の問題にしてもそうですが、メディアは「移民」への理解を受け入れ側の社会に強調しますが、移民側の努力は問われません。

その論理として、移民は「弱者」だから。

弱者であれば、いつまでたっても哀れみの目でしか見られる事はありません。
言い換えるならば、「大人」が「子供」を見る目でしかありません。

そして、その「子供」はいつになったら「大人」へ成長してくれるのでしょうか?
メディアが受け入れ側の社会に配慮が足りないと非難すればするほど、「一体どれだけ弱者(移民)に合わせればいいの?」と逆差別感が募るだけでしょう。

この点をメディアがきちんと認識しなければ、どんなに受け入れ体制を整えても、制度を変えても、相手に尊敬を抱くのは難しく、対等な立場には立てないでしょう。

日系アメリカ人達の苦悩と努力の歴史、これは移民が社会に溶け込む上で重要な示唆を含んでいると思います。



日系アメリカ人の歩みと現在
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声無き在日の声が挙がる日
在日民団指導監査結果報告書 2006-12-18 【投稿者】 kintarou ...続きを見る
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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
同感です、
海外へ行ったら、そこに長く住むのなら、本人達がまず努力すべきなんですよ。

アメリカへ行くなら英語を勉強する、フランスなら仏蘭西語を覚え、習慣も勉強し、全部とは言いませんが、それなりに合わせることが大事です。それが礼儀です。

mm
2009/06/15 09:26
世界でも最貧国といわれ、長く中国に支配されていた朝鮮半島。そこでの暮らしがいやで、豊かな日本に憧れ、「勝手に」やってきた在日朝鮮人は、戦前戦後で手薄になっていた日本人を襲いました。駅前の一等地を奪いパチンコを立てました。全国で凶悪犯罪を集団で起こし、暴れまわりました。

勝手に来たのに、なぜかレンコウされたと言い出し、あれだけ暴れ周り日本人を苦しめたから嫌がられているのに、差別されたと弱者を装う在日たち。その子孫、、、


これで日本人が在日を嫌う、批判するようになるのは全く人間として当然なんですよ。
外国人だから嫌うのではなく、危険な人間だから嫌うのです。

なのにマスコミは、少しでも在日を批判すると排他的な日本人、と大合唱します。どうなっているんでしょう、、、本物の被害者は日本人なのに。
戦後の在日の数々の暴動は、アメリカ軍も目撃しています。山ほど証言もあります。


民主党が日本は日本人だけの国じゃないと言いました、拉致事件も友愛が大事なのだそうです。
韓国の大統領が太陽政策で思い切り失敗したのに、、、もうあいた口がふさがりません。
mm
2009/06/15 09:27
先の戦争で多くの日本人の命が建前と言われるかもしれませんが、大東亜のために失われました。残留日本軍の力で独立した国もあります。アメリカ合衆国で母なる国日本との間で苦悩し欧州戦線で戦った日系人の尊い命が奪われました。このような尊い命を犠牲にして、義のために命を落とした多くの日本人に感謝の気持ちを持ちます。世界中に、日本人の地位をこの尊い命で示していただきました。私はこのような多くの大先輩に敬意を持ちますし感謝もしています。日本人はもう少し誇りを持ちましょう。日本人に生まれて本当に良かったと感謝しています。
トム
2012/10/23 20:36

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