ピーノの独り言

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zoom RSS 2006年1月1日 各社社説

<<   作成日時 : 2006/01/02 00:01   >>

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各社社説を載せてみました。
どうぞ読み比べてみてください。

 日経
 毎日
 産経
 朝日

の順に載せています。


■ 日経新聞

人口減に克つ(1)成長力を高め魅力ある日本を創ろう

日本はいま明治以来の分岐点に立っている。バブルとデフレの「失われた時代」からようやく抜け出せると思ったら、今度は日本人が減り始めた。しかも人口減少のテンポはかなり速そうだ。これを座視すれば、日本は衰退への道に足を踏み入れる。人口減にどう克(か)つか。100年の計が求められる。

「GNP」をもう一度

 人口問題で針路を誤った忌まわしい時代が日本にはある。石橋湛山は「思うに今我が国民は一の謬想(びゅうそう)に陥れり。人口過剰の憂ということこれなり」と述べ、人口問題を口実にした拡張主義に警鐘を鳴らした。この大正時代、日本の人口は5000万人台にすぎなかった。

 いま日本が針路を誤るとすれば、人口減に不作為であることだ。出生率が1.29に陥った日本は江戸末期以来の人口増に終止符を打った。放置すれば100年後には4000万人になる。2050年で人口を維持できる出生率2.07を回復したとして、やっと8400万人にとどまる。

 人口減の影は将来世代だけでなく回復する日本経済をもおおう。人口減が進行すれば、消費はなえ企業経営を圧迫する。税収は上がらず、財政危機を深める。少子化と高齢化の同時進行で貯蓄率は下がり、経常収支の黒字も減る。所得格差や地域格差が広がり、社会保障をめぐる世代間の不公平感も強まる。日本のデフレの原因は少子高齢化による期待成長率の低下にあるというのがポール・クルーグマン教授の診断だ。

 人口が減っても、ゆたかに静かに暮らせればいいと考えたいところだが、そうはいかない。縮み経済の悪循環はやがて日本を衰亡させる。その危機感こそ共有すべきだ。

 まず少子化にあらゆる対策を結集する。安心して子供を産み育てるには、女性の重すぎる負担を家庭とともに国、自治体、企業、地域社会が分担するしかない。単に財政資金をつぎ込んで即効を期待するのではなく、保育や教育など粘り強い対策の積み上げが必要になる。

 そのうえで、国をあげて成長戦略を強化する。成長力を高めないかぎり危機から脱出できない。その物差しは海外からの投資収益を含む国民総生産(GNP)がふさわしい。グローバル化の果実は実る。成熟国家の利を生かすときである。

 幸い日本には成長の余地がある。それをどう成長フロンティアの拡大につなげるかである。

 第一に、雇用創造である。人口減を補うには女性や高齢者を労働市場に引き出すことだ。サービス経済化が進むなかで、女性の感性を生かせない企業は生き残れない。

 団塊の世代のリタイアが07年から始まるが、日本ほど高齢者の働く意欲が強い国はない。団塊世代を中心に高齢者は、なお働き手であり続ける。崩壊しかけた地域社会の担い手にもなる。ニートなどの未熟練の若者が職に就けないのは企業社会とのミスマッチが原因となっている面もある。職業訓練しだいで立派に働ける。ソフト開発などで異能ぶりを発揮するかもしれない。

 第二に、技術創造である。アラン・グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長が分析した通り、米国経済の快走は、IT(情報技術)革命による大幅な生産性向上でもたらされた。ここで日本は大きく出遅れた。たゆまぬイノベーションが企業社会を変え経済構造を変革する。ネット革命など大きな波を先取りすれば、成長の地平は広がる。

100年後の日本のために

 そして第三に、市場創造である。少子高齢化で日本の市場が成熟化しても、アジアの発展はこれからだ。東アジアでは貿易・投資の相互依存は深まり、民間企業レベルで事実上の経済圏はできている。政府の役割はそれを後押しすることであり、外交のあつれきを招いて、それに冷水を浴びせることではない。

 欧州諸国が統合に動いたのは、たそがれの時代を脱して新たな成長フロンティアを求めたからだった。欧州連合(EU)の深化と拡大は形を変えた成長戦略である。成熟国家の知恵と政治的意志に学ぶときだ。

 日本の高度経済成長を演出した下村治は成長の歴史的意義についてこう述べている。「過去の実績を背負い、将来の可能性を頭に描きつつ、われわれ自身が営々として創造し、築き上げるものである」

 人口減に克つために、日本は創造的改革をてこに新たな成長をめざさなければならない。働きがい、生きがい、育てがいがあり、世界からヒト、モノ、カネを引き寄せる。そんな「魅力ある日本」は成長を土台にしてはじめて創(つく)れる。100年後の日本のために、われわれはいま何をすべきかが問われている。

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20051231MS3M3101731122005.html




■ 毎日新聞

ポストXの06年 壮大な破壊後の展望が大事

小泉純一郎首相の独特な政治スタイルの下で日本全体の変革が進み始めて5回目のお正月を迎えた。われわれはこの間、それ以前の政権の下で見慣れた風景とはずいぶんと異なった日々を見てきた。

 劇場型と評され、深みよりわかりやすく、大ざっぱで大向こうをうならせることに主眼がおかれた。時代の潮を巧みに捕らえた手法だ。

 そしてその日々は21世紀初頭の5年間とダブる。折から世紀替わりの節目の時、20世紀型の悪癖や旧癖を支えてきた既成秩序が次々と改革の俎上(そじょう)にあげられた。あたかも変えないことは悪いことという旋風が吹き荒れた。その台風の目に小泉首相が居続けた。

 その民意を捕らえる派手さと部分的無謀さから、彼以外、これほどの激変を成し遂げえた人はいないと見えても不思議はない。前回総選挙での大勝利は国民がそれを認めた証拠でもあるのだろう。

改革の結果はこれから そして今、小泉首相は今年9月の退任を前提に、次期政権にも小泉改革路線を引き継がせるべく「行政改革推進法」を成立させることを狙っている。その信念たるや確固として身の処し方も立派なものといえようか。

 しかしもしそうなら、すべてやりっぱなしでいまだ道半ばでしかない小泉改革を他人の手に任せず、自分自身で成し遂げるのが政治家として首相として筋というものであろう。この多種多様な日本をモノカラーに染めようと途中までやって、後はよしなにでは虫が良すぎないか。無責任ではなかろうか。

 道路も郵政も政府系金融機関も財政再建も医療年金も三位一体も公務員削減もなにもかも、改革を始めたばかり。派手に大騒ぎしている割には、どれひとつ確実な結果がでたものはない。この程度の改革内容ではわが日本の優秀な官僚たちの技をもってすれば、今後いかようにでも変身させられる。

 小泉首相本人の叱咤(しった)激励と催促の継続なしには、決して完成はしない。

 近年、先進国で大胆な改革や画期的な政策を成し遂げたトップたち、たとえばサッチャー、ブレア両英首相、コール独首相、ミッテラン、シラク両仏大統領などなどはいずれも10年単位で政権を維持し、ことを成し遂げ、結果も自ら受け入れてきた。米大統領は憲法上8年が最長だが、その8年で自分の政策の結果も見届けている。

 だからこそ周囲も責任を持って、切るものを切り捨て新しいものを取り入れて改革全体が進行完結する。また、それだからこそ後継者は自分色でそれを修正していく政権交代方式が可能になる。結果責任を負わないトップ交代は基本的な政治の世界のルール違反ではないか。

 ここは民主主義の国である。後継首相は基本的に選挙で選ぶことになっている。後継者はその政見を提示して前任者ではなく間接的とはいえ原則われわれ国民が選ぶ。

 現首相が後継者に条件をつけていいものだろうか。自民党の総裁後継者であり自民党は私党であるというのは、現状ではへ理屈になろうか。首相を辞めるということは政策への影響力もなくなるということだ。いかに強力な小泉首相といっても、そこは間違ってもらっては困る。

 さてこのままでは、小泉改革の結果がどうなるか実はすべて不明である。ポスト小泉が見えない、ポスト勝ち組負け組社会が見えない、ポストゼロ金利経済が見えない、ポスト自衛隊サマワ派遣の影響が見えない、ポスト米軍再編協力のバランスがわからない、ポスト靖国参拝で日本と中国の関係、アジアにおける日中の力関係が全然見えない、ポスト派閥解体の行方が見えない……。

 そしてがんばった人たちが本当に報いられる社会に少しでもなったのだろうか。

 21世紀に入って5年経過して、先は見えていない。そもそも初めから将来の日本の姿は示されていない。目の前に山積した矛盾をできそうなところから壊してきただけだ。言ってみればこの壮大な秩序大破壊のあとどうするのか、ポストXを今年からわれわれは考えていかねばならない。

手段が目的に 民営化、効率化、競争の名の下で壊すだけが目立ってきた。その国内の騒ぎに目を奪われ、大変化する世界に対応できていない。9月には辞めて、壊したものの再建を他人任せにしようとする小泉政権の尻ぬぐいをしなければいけない時期に入ってきたと言い換えてもいい。

 かつて明治期の富国強兵は、独立を保つために強兵が目的で富国は手段だった。戦後強兵を断念、富国に専念した。豊かになるために豊かになった。目的と手段の同一化だ。それは効率はいいが価値観の喪失で、必然的にただ自分を膨らませてカエルのようにパンクしたバブルで完結した。

 今、小泉改革が進めるあらゆる既成秩序の破壊は、目的が何なのか、手段が目的になっていないか、ちょっと前、豊かになるために豊かになった時と同じ過ちを犯そうとしていないか。トラの威を借るキツネたちが首相の周りで価値観もなく威張り散らしていないか、よくよく見極めなければいけない。

毎日新聞 2006年1月1日 0時16分

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/





■ 産経新聞

新たに始まる未知の世界 アジア戦略の根幹は日米同盟

新しい平成十八年の元旦を迎えた。いつどのような時代も、日本人にとって正月は特別である。大晦日(おおみそか)の百八つの鐘により煩悩も穢(けが)れも洗い流され、すべてが清々(すがすが)しく、若々しい力を与えられる。

 今年は特にその思いが深い。日本経済はついに長い低迷を脱した。総選挙での自民党の圧勝は国民が小泉純一郎首相の改革を強く支持したことを示す。確かに日本は一つの分水嶺(ぶんすいれい)を越えたのだ。

 しかし平成十八年は前例なき事態と向かい合う厳しさもまた内包している。

 例えば日本は、例外的な一時期を除き、歴史上初めての人口減少時代に入った。それはまだ日本人誰ひとりもが経験したことのない未知の世界である。

 あるいは「皇室典範に関する有識者会議」は女性・女系天皇を認め、男女を問わず長子の皇位継承を優先すべきだとする報告をまとめた。日本を日本としてきた伝統と文化の改変に、これまた歴史上初めて国会は踏み込もうとしている。

 「変えるべきものと、変えることのできぬものを、識別する知恵を」との祈りを記したのは、米国の神学者、ラインホールド・ニーバーであった。

 明るい兆しをわが力としつつ、前途に待ち受ける厳しさに立ち向かう決意や覚悟が、平成十八年ほど求められている年もない。そうした意味合いをも含めて格別の新年と言いたいのである。

≪モノ言う外交は出発点≫

 平成十八年、まず考えねばならないのはやはりアジア外交であろう。

 昨年、反日暴動から靖国参拝反対、東シナ海ガス田強行開発に至るまで、中国の理不尽な要求や行動に対して、日本が「モノを言う」外交の一端をようやく見せたことは、戦後の日中関係の文脈から見れば実に画期的なことではあった。

 しかし脅威感と不透明さを増す中国を前に、日本が確固たる存在感を保持し、アジアでの信頼を不動のものとするためには、中国に「モノを言う」のは出発点ではあってもゴールではない。それにはアジア外交の魅力あるビジョンと、したたかな戦略が必要である。日本のためにも、アジアのためにも。

 小泉首相が首脳会談再開のため、中国や韓国と取引・譲歩をしなかったことは正しかった。近隣外交が「手詰まり」との批判は確かにあるが、ひるむことなく小泉首相は「靖国参拝はもはや外交問題にはならない」との認識が定着するまで姿勢を貫いてほしい。

 国際社会の場裡(じょうり)で日中の確執がもっぱら覇権競争と捉(とら)えられることは、今後も避けがたい。しかし日本としては、そこに拘泥すべきではあるまい。

 しなやかな民主主義。揺るぎない人権と言論の自由。公平で公正な市場競争。持続可能な経済発展。かの国がいかに高い経済成長を遂げようとも、到底望み得ないこのような理想や普遍的価値観を示すことに、むしろ日本は専念すればよい。なぜならそれが日本も含めて国際社会が目指してきたことだし、成果もまた上げて来たからである。

 いまアジアの地図は大きく塗り替わりつつある。眠れる巨象といわれてきた最大の民主主義国インドの確実な台頭、命運がますます重要度を増し始めた台湾。日本はこうした国・地域との戦略的対応も強めていくべきだろう。

 順序は後になったが、日米同盟の死活的重要性もアジア外交の重要性に勝るとも劣らない。いや、アジア外交を進める上でも、根幹にあるのは日米同盟である。もとより日米同盟かアジア外交かの二者択一ではない。朝鮮半島、台湾海峡…東アジアの安定と平和に日米同盟が寄与する大きさは、誰の目にも明らかだし、中国が危険な方向へ向かわぬよう抑止力としての日米の戦略的提携・協調はますます重要度を増すだろう。

≪驕らず高ぶらずの日本≫

 だが史上最良といわれる日米関係に過信は禁物である。親密なジュンとジョージの一方の小泉首相は、九月には自民党総裁としての任期を終える。ポスト小泉が誰であれ、良好な関係を後退させない意志と仕組みとが求められる。

 三月には在日米軍再編計画の最終報告が予定されている。日本の自立を求める主体的行動と、日米同盟の深化とを調和的に発展させていくためには、日米両国民の同盟への理解が欠かせない。

 世界でもっとも理想的な同盟モデルとされる英米とは異なる、しかし、もう一つの理想のモデルとなり得るか、日米関係もまさに真価が問われる年である。

 二十一世紀を見ることなく平成八年に死去した国際政治学者、高坂正堯は事実上の遺稿となった論文「二十一世紀の国際政治と安全保障の基本問題」で、日本が《大声で明快なアメリカの普遍主義》と《長い歴史と巨大な量を背景とする中国の原理主義》に挟まれるであろう困難を予見していた。

 日本はどう生きるべきなのか。高坂正堯はそこで次のように書いた。

 《原理を明白な言葉で語るのは、鬨(とき)の声を上げるのにも似て、気持ちは高揚するだろう。しかし、そうしなくては気持ちが高揚しないのは心の貧しさか、国内不安定のためであることが少なくない。しっかりした実績を上げており、小さい声であっても妥当なことを述べ続けるのも、長い目で見れば一つの信用につながる》

 奇(く)しくも、二十一世紀前半の世界における日米中のありようの一端を暗示している。だが唯一、高坂正堯が目撃できなかったことがある。それは、日本の声はもはや必ずしも小さくはないということである。驕(おご)らず、高ぶらず、確かな実績を重ねる日本でありたい。

http://www.sankei.co.jp/news/editoria.htm






そして、我らが朝日新聞w

武士道をどう生かす 2006謹賀新年

明けましておめでとうございます。

 今日はこの言葉が日本中を行き交っていることだろう。

 正月がめでたいのは、気分新たに幸せが来そうな気がするから。英語で「ハッピー・ニューイヤー」、中国語では「新年快楽」や「新年愉快」。この気持ちは世界に共通のようだ。

 あなたの願いは何だろう。入試、就職、恋愛、仕事、健康、平和……。みなさまの幸せを心からお祈りしたい。

 ところが困ったことに、幸運は平等にはやってこない。スポーツに勝者と敗者があるように、我が身の幸せはしばしば他人の不運と重なり合う。

 昨年は郵政民営化で勝者と敗者が明暗を分けた。織田信長を好む小泉首相は気迫で総選挙の勝負に出ると、造反派のもとに「刺客」を送る非情さも見せた。


●内外のいらだち

 「戦国武将に比べれば、いまの権力闘争などなまっちょろい」

 甘えやもたれ合いの時代が去ったからこそ、これが余計受けたのか。いまは能力や成果を争う「競争」の時代だ。

 しかし、それはちょっと嫌な言葉も生んだ。「勝ち組」と「負け組」である。

 IT事業や投資ブームの波に乗ったリッチな人々。一方で倒産、失業、リストラ。正社員は減り、フリーターやニートが増える。所得の差は広がり、自殺者は空前の水準。競争と二分化によって生まれる社会のいらだちは、これからの大きな課題に違いない。

 そんな折、この国の近所づきあいがすっかりこじれたのは偶然ではないかもしれない。日中も日韓も首脳間の信頼がこれほど壊れてしまうとは……。


 大きな火種は小泉首相の靖国神社への参拝だ。悪いのはそっちだ、いや、そっちの方がおかしい。子供のようなけんかは歴史の歯車を逆転させ、せっかく緒についた「東アジア共同体」の機運にも水を差してしまった。

 昨春、北京や上海で暴力騒ぎになった反日デモのように、中国や韓国には荒々しいナショナリズムが横たわる。中国の強権的な支配や軍事力膨張の不気味さなども厄介で、こちらがきちんともの申すべき点は少なくない。

●他者への哀れみは

 だが、それだけに身をただすべきこの日本は、どうだろう。

 「牙を剥(む)く中華帝国」

 「反日国際ネットワークを粉砕せよ」 まるで戦争前夜のような見出しが一部の大手雑誌に毎号のように躍る。呼応するかのように有力政治家も寄稿する。


 空前の韓流ブームは救いだが、一方で『嫌韓』の言葉を冠した漫画が何十万部も売れている。インターネットにはさらに激しい言葉があふれる。冷静さを欠いた言論は、まるで国内のいらだちを外に吐き出しているかのようだ。

 「外国の干渉を許すな」と、首相の参拝を支持する人々の声もとかく勇ましい。郵政問題を武将の流儀で押し切ったように、ここでも強気で押してこそ国家のリーダーだ、といわんばかりに。

 そういえば少し前、映画『ラストサムライ』のヒットもあって、ちょっとした「武士道」ブームが起きた。忠義のため命を捨てる潔さがたたえられがちだが、その本質は決して好戦的ではない。

 1世紀ほど前、新渡戸稲造は英語で出版した名著『武士道』のなかで、「いつでも失わぬ他者への哀れみの心」こそサムライに似つかわしいと書いた。弱者や敗者への「仁」であり、「武士の情け」「惻隠(そくいん)の情」のことである。

 最近では数学者の藤原正彦氏がベストセラー『国家の品格』でそうした側面を強調し、武士道精神の復活こそ日本の将来のカギを握ると唱えている。

 ならば「武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯(ひきょう)なこと」(藤原氏)だった日中戦争に、いまだけじめがつかないのでは話にならない。あの時代、アジアでいち早く近代化に成功した「勝ち組」が「負け組」に襲いかかったのがこの戦争だった。

 靖国神社はその軍部指導者までたたえて祀(まつ)っている。そこに、中国などの神経を逆なでして首相が参拝し続けるのは、武士道の振る舞いではあるまい。参拝をはやしたてる人々もまたしかりだ。


●品格を競いたい

 いま「60年たっても反省できない日本」が欧米でも語られがちだ。誤解や誇張も大いにあるが、我々が深刻に考えるべきはモラルだけでなく、そんなイメージを作らせてしまう戦略性の乏しさだ。なぜ、わざわざ中韓を刺激して「反日同盟」に追いやるのか。成熟国の日本にアジアのリーダー役を期待すればこそ、嘆く人が外国にも少なくない。

 中国の急成長によって、ひょっとすると次は日本が負け組になるのかも知れない。そんな心理の逆転が日本人に余裕を失わせているのだろうか。だが、それでは日本の姿を小さくするだけだ。


 武士道で語られる「仁」とは、もともと孔子の教えだ。惻隠の情とは孟子の言葉である。だからこそ、子供のけんかをやめて、大国らしい仁や品格を競い合うぐらいの関係に持ち込むことは、アジア戦略を描くときに欠かせない視点である。秋に新たな首相が選ばれる今年こそ、大きな転換の年としたい。

 ことは外交にとどまらない。

 国民の二極分化が進む日本では、まだまだつらい改革が待っている。競争や自助努力が求められる厳しい時代だからこそ、一方で必要なのは弱者や敗者、立場の違う相手を思いやる精神ではないか。隣国との付き合い方は、日本社会の将来を考えることとも重なり合う。

 自分の幸せを、少しでも他者の幸せに重ねたい。「新年愉快」ならぬ「年中不愉快」が続いては困るのだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html




朝日新聞は去年一年「不愉快」が続いたみたいですね、お察し致しますw
今年は朝日新聞にとって、より不愉快な一年になりそうですが、どうか品格を持って報道してくださいね。



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タイトル (本文) ブログ名/日時
駄洒落で反日遊戯する朝日新聞の元旦社説
&lt;font size=3&gt;平成18年・皇紀2666年。朝日新聞は今年も読者を楽しませてくれるつもりらしい。おめでたいことだ。今日、平成18年1月1日の朝日新聞社説&lt;font color=red&gt;「武士道をどう生かす 2006謹賀新年」&lt;/font&gt;を読んでそう思った。 ...続きを見る
松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG
2006/01/02 09:25

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