ピーノの独り言

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zoom RSS HARUKOお婆さん

<<   作成日時 : 2006/05/20 03:12   >>

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今回もmumurさんのブログから。
在日の家族を撮ったドキュメンタリーの一コマです。
ほんの数分の動画ですが、そこには、この問題の本質が隠されていたと思います。
私も最初見た時には、わかっていたとはいえ、事実の重みに打たれました。


「私は徴兵で日本に来たんだよ」と主張する母親と、「嘘を言うな」とたしなめる息子。
ずーっと探していた動画なんですが、YouTubeで見つかったのでリンクを貼っておきます。


http://www.youtube.com/watch?v=lCbB1BAcN3w&search=korea


これはインターネットが普及する前に放送されたもので、確かフジ系列の「NONFIX」という深夜番組だったと思います(違ったら訂正よろしく)。

いわゆる強制連行説が嘘であることを知っている在日は昔からいたことがわかる貴重な資料です。

http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50501829.html


そして、こちらはこの動画に対してのコメント






フジテレビ制作のドキュメンタリーですね。
日曜日の昼に放映していたものです。
http://www.fujitv.co.jp/haruko/index2.html

すごい迫力のハルモニですけど、見る価値のある映像だと思います。息子さんは確か総聯の映画関係で仕事をしていて組織から離れた方だったと思います。
私はこの作品は高く評価します。非常に貴重な映像です。多分、総聯・民団も忌避するような生々しい映像なんです。
彼女の発言の一字一句を云々するのではなく、生きた時代を私たち日本社会の過去、戦後史と重ね合わせて改めて手元に目の前につかみ出す(再認識)必要があるように思います。
私の祖父や祖母もこのハルモニとそんなに違わない生活をしていましたから。
問題はいい素材と位置づけてどう裁いていくかです。
Posted by 一度見ようよ! at May 19, 2006 22:15




ハルコの人生とその時代 (抜粋)
HARUKOのサイトより

11/8 済州島旧左面東福里の半農半漁の村で、父鄭干告の後妻になった母元順道の娘として生まれる。
1918年(大正7年)
米騒動
1919年 1/22 前皇帝高宗・コジョン死去
3/1 3・1独立運動始まる
1920年代
大阪ー済州島の民間航路の開設
1923年 9月 関東大震災
1925年 8歳 母が病死、父親の家に引き取られる
1929年 12歳 親元を無断で離れ、身内の者に連れられて大阪へ。住み込みで縫製工場で働く。
1931年(昭和6年) 9月 満州事変
1934年 17歳 済州島出身の金致善(1912年8月15日生まれ)当時22歳と見合い結婚ふたりで有り金はたいて縫製工場を購入
1936年 8月 南次郎 陸軍大将が朝鮮総督に就任  内鮮一体の提唱
1938年 陸軍特別志願兵制度
教育令改正 朝鮮語は随意科目に
1939年
1940年(昭和15年) 2/11 創氏改名 オモニは金本春子に。
1943年 4月 大阪大空襲で家と工場が焼失。大分県の柳ヶ浦へ疎開。夫は賭博に夢中になり、離ればなれ
1945年8/15 終戦 
オモニたちは下関で生活 屋台で働きオモニが一家を支える。行方不明の夫が下関に来、済州島へ帰ると家族会議。しかし、船の中でオモニは気が変わり、船から降りる。済州島は父、性鶴、次女康子が帰国。大阪・鶴橋で母、長女英子、3女孝子が生活。
済州島:父は賭博で家や畑を失い貧しい生活。
大阪:2坪ほどのバラックの店で商売。米や生地を売る

1947年   外国人登録令の公布
子供全員の外国人登録手帳をつくる
1948年 4/3 済州島 四・三事件
この頃、性鶴さん10歳 貧しくて学校も行けず、済州島の様子を聞き、オモニ三度くらいお金を持って済州島を訪ねるが、四・三事件の後、オモニ子供を連れて済州島に戻る。
1949年 6/6 4女英順 誕生
四・三事件も激化 オモニ日本への密航を決意
1950年 6/25 朝鮮戦争勃発
12月 オモニ、性鶴、次女康子が日本へ帰国
対馬→漁船チャターして博多へ
6ヶ月滞在→大阪へ(〜翌1月)
夜の鉄鋼拾いヤミ米の買い出しなどで生活を支える
1952年 8月 一家で上京
東京浅草で置屋商売  相手は朝鮮戦争で戦場からの帰休兵
1953年 7/27 休戦協定の調印
朝鮮戦争の休戦後に置屋廃業、パチンコ景品のタバコ買いを始める。
新宿にアパートを借りる 性鶴、康子、オモニ3人の生活。
なわばりは新宿二幸(アルタ)裏のパチンコ屋。娘たちも協力するが、刑事に捕まる。
1954年   次女康子が12歳で家出。大阪で見付かるも、ひとりで上京の際にまたもや行方不明に。
1955年 9月 夫と3女孝子が密航で東京に来る
1956年 7/21 次男 性行 誕生
  北朝鮮帰国事業始まる
1958年   性鶴 日本大学映画科入学
夏よりアルバイトで8ミリカメラ購入 撮影開始
性鶴、帰国の申請をするがオモニは猛反対
1959年 7/28 3男 性男 誕生
12月 第一回帰国船が新潟港より出航
1960年 夏 性鶴大学中退 山本薩男監督の「人間の壁」撮影助手
秋 朝鮮総連の映画部で撮影の仕事
1962年   夫は日本人女性を妊娠させ、家を出て大阪へ
1963年   4女英順(日本名良子)が密航 長崎県大村収容所に入所。オモニ、性鶴、3女孝子と迎えにゆく
同年 オモニ 警視庁逮捕 専売法違反
1964年   新宿百人町の一郭で景品買いを続けていたが東京オリンピックで解体
1965年   新宿で30坪の平屋を購入、「金本商店」を開く


以下略

http://www.fujitv.co.jp/haruko/jidai.html



7人の子供を生み、日本の敗戦、朝鮮戦争と動乱の時代を生き抜いたハルコお婆さん。
ここからは私の想像でしかありませんが、7人の子供、見知らぬ国での極貧の生活、そして夫の裏切りと様々な不幸が降りかかる中、彼女はこれら不幸を「何かのせい」にする事で打ちのめされそうな精神を奮い立たせる術を身につけていったのではないでしょうか。

不幸を「恨」という怒りのエネルギーに換えて、それを生き抜く為の術としてきてしまった。
例え、それが事実とは異なっていたとしても、何かにすがる思いで必死に「恨」を抱き続けた。

息子が事実を指摘しても、ハルコお婆さんは決して受け入れません。
そして、「息子は思想が無い」と返します。



彼女にとって、「恨」とは既に心の拠り所となってしまっている様な気がします。

そして、嘘の歴史の馬鹿らしさに気付いている在日達もこの様な実態を知っているからこそ、声を上げにくいのかもしれません。


しかしながら、彼女達の境遇に同情することは、彼女達の「恨」を引き継ぐ事ではありません。
同時に、真実を伝える事とは、彼女達の「恨」を伝える事ではありません。


我々が真実の歴史に向き合える様になったその時こそ、本当の意味での日本の「戦後」なのかもしれません。



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2006/12/27 21:40

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内 容 ニックネーム/日時
彼女の災難に同情は出来るが、
私自身は「恨」という感情に縋りたいとは思わず死んだほうがいいと思うため
そこまでどうして生きたいと思ったのか理解出来ない。
77
2006/05/24 12:42

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