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<<   作成日時 : 2006/06/08 08:43   >>

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台湾の中学校では、一九九八年秋の新学期から新しい歴史教科書『認識台湾』(歴史篇)が使用されるようになりました。
従来の歴史教科書は中国大陸の歴史を中心とし、台湾に関する記述はほんのわずかだったそうです。
しかし、新たな教科書は「先人が台湾を開発した史実を認識し、団結と協力の精神、郷土を愛し国を愛する情操を養う」(同書巻頭文より)ことを目的として編纂されています。
以下の教科書の翻訳文はインターネットに掲載されていた部分を引用したものです。



 同教科書は「先史時代」、「国際競争時代」、「鄭氏統治時代」、「清朝領有時代前期」、「清朝領有時代後期」、「日本植民統治時代の政治と経済」、「日本植民統治時代の教育、学術、社会」、「台湾における中華民国の政治的変遷」、「台湾における中華民国の経済、文化、社会」、「将来への展望」の十の区分に分けられ、日本統治時代の二項目は全百十六頁のうち二十九頁が当てられ、詳述されるとともに新たな解釈が加えられている。本連載はこの二十九頁分を全訳したものである。


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第七章 日本植民統治時代の政治と経済

は じ め に

 日清戦争後、日本は台湾を取得し、台湾総督府を開設して五十一年の植民地統治を開始した。この変化に対し、台湾官民は当初「台湾民主国」を樹立して日本の接収に抵抗し、つづいて二十年もの長期間にわたり、対日武装抵抗をおこなった。日本は力で抵抗を鎮圧する一方において、総督府による専制統治体制を確立し、さらに警察と保甲制度を運用して台湾社会をうまく統制していった。経済面では初期に農業を改革し、台湾を日本への米と砂糖の供給地となし、後期には工業化を推進して台湾を日本南進の補給基地とした。

第一節 台湾民主国と武装抵抗

●台湾民主国の抵抗

 西暦一八九五年(清の光緒二十一年)四月、中日両国は下関条約を締結し、台湾・澎湖を日本に割譲した。台湾官民は再三にわたって清廷に撤回を求め、同時に列強の支援を得ようとしたが、ことごとく失敗し、自己努力を残すのみとなった。五月二十五日、「台湾民主国」を樹立して巡撫の唐景(山+岩)を総統に推挙し、議会などの機構を開設し、丘逢甲を義勇軍の指揮官となし、日本の接収に抵抗した。

 しかし、日本軍の上陸後すぐに守備隊は壊滅し、唐景(山+岩)や丘逢甲らは相次いで中国大陸に渡った。六月、日本軍は台北に入り、台湾統治の開始を宣言した。台南に陣取る劉永福は軍民を指揮して抵抗を継続した。 六月下旬、日本軍は南下し、各地の民衆はつぎつぎと義勇軍(注@)を組織して在台の新楚軍(注A)、黒旗軍(注B)と勇敢に抵抗したが、最後には日本軍との兵力、武器の大きな差により、つぎつぎと敗退していった。十月下旬、劉永福も守備を放棄して大陸に渡り、日本軍は台南を占領し、民主国の抵抗は完全に崩壊した。

 日本は台湾軍民の勇敢な防衛抗戦に対し、大軍を出動させて鎮圧した。台湾軍民で戦死もしくは殺害された者は一万四千人の多数にのぼり、犠牲は大きかった。

●各地義民の武装抵抗

 一八九五年十一月、台湾総督府が全島平定を宣言したあとにも、各地には武装抵抗事件が相次いで発生した。各地の義民による武装抵抗は、およそ前期と後期の二期に分けられる。一九〇二年までを前期とし、この時期の抵抗は、屍を乗り越えていくというものであり、参加した民衆は多い場合で数千人、少ないときでも数百人で、その大部分はゲリラ戦法をとり、日本人の虚を突き大きな打撃を与えた。

 当初、総督府は残酷な報復的鎮圧を展開し無差別的殺傷を進め、かえって民衆を抗日へと駆り立てるところとなった。その後「三段警備制」の実施に改め、治安状況によって全島を危険、不穏、安定の三区分に分類し、区分ごとに軍隊、憲兵、警察が警備に責任を負ったが、効果はあまりなかった。一八九八年、総督の児玉源太郎は積極的に鎮撫と策略の方法を採用し、警察力を拡充し壮丁団(注C)を活用して武力鎮圧を進める一方、招降策を定めて抗日勢力の投降を勧誘した。一九〇二年、各地の抗日勢力はつぎつぎと崩壊し、民間が所有する武器をすべて没収し、この七年間に抗日運動に加わって戦死あるいは逮捕殺害された者は一万人余に達した。

 一九〇七年から一九一五年が後期となる。この時期に、台湾各地で前後して十を越す民族革命的な抗日事件が発生し、各事件はいずれも一挙に在台日本人を殲滅し駆逐することを謀議していた。しかし、参加人数は苗栗事件、西来庵(現在の台南市内に存在)事件が相応の規模であったのをのぞき、その他はわずか十数人から百余人程度のものであった。

 当時、総督府の台湾社会に対する統制は非常に厳格で、各事件は謀議の段階で総督府に察知されるところとなっていた。一九一三年、苗栗事件で死刑に処せられた者は、羅福星など二十人であったが、いずれも刑場において死への気概を従容として示し、このため現場の日本官憲を感動させた。一九一五年、西来庵事件によって逮捕された者は二千人近くに達し、最終的に処刑された者は余清芳ら百余人であった。

●霧 社 事 件

 一九三〇年十月、霧社地区の先住民は日本官憲の横暴と圧迫を不満とし、頭目モーナ・ルーダオの指揮下に学校の運動会に参加していた日本人に突撃して百三十四人を殺害し、武器と弾薬を奪い、そのあと山中に撤退した。

 事件発生後、総督府は軍隊と警察二千余人を召集し、爆撃機や毒ガス等を使用して強力な鎮圧を展開した。霧社の先住民は五十余日にわたって抵抗したが、結局失敗し、当初一千四百人であった人口がわずか五百人となった。翌年四月、日本警察は親日先住民を使って攻撃し、ふたたび多数を殺害した。

 この事件によって総督府は先住民政策を再検討せざるを得なくなり、台湾総督など関係官吏は引責辞任をした。


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【注釈】

@義勇軍:各地の住民による民間自 衛組織で、組織的抗日武力の基礎となった。たとえば大(山+科)(山+坎)(現在の桃園県大渓鎮)、三角湧(現在の台北県三峡鎮)の住民が組織した義勇軍は日本軍に大きな打撃を与え、総督府は全面的な掃討と焦土政策をとり、民家を焼き尽くし多くの無辜の住民を殺害した。

A新楚軍:台湾民主国の抗日期間中、台湾府の知府であった黎景嵩が台中地区の壮丁を募集し、そこに残留の湘軍と楚軍(いずれも清国兵)を加えて編成したもので、このため新楚軍と呼ばれた。

B黒旗軍:劉永福の率いた部隊で、七つ星の黒い旗を標識としたことから、この名が生まれた。ベトナムをめぐる清仏戦争で黒旗軍はフランス軍を破り、勇名をはせた。一八九四年(清の光緒二十年)、劉永福は同軍を率いて台南進駐を命じられ、防衛の任務についた。

C壮丁団:保甲の住民中、十七歳から四十歳までの男子で組織され、定期的あるいは臨時に召集され、各種の訓練がおこなわれた。警察の指揮・監督下に盗賊や天災への警備に従事し、抗日分子の鎮圧にも動員された。

【研究と討論】

一、台湾総督府は武装抵抗にどのように対処しただろうか。

二、自分の地域での抗日事件と史跡を調査してみよう。



第七章 日本植民統治時代の政治と経済

 第二節 政治と社会の統制

 総督専制の統治体制

 一八九五年、台湾総督府が設立され、総督が軍事、行政の首長となった。翌年、日本政府は台湾を新たに得た植民地として、不平等待遇によって台湾人を蔑視し、「法律第六十三号」(「六三法」と略称)を公布し、立法制度を委託して台湾総督に法律の効力を有する命令を発布する権限を付与した。台湾総督が最高の長官となり、人事の任免権、議会の管轄権、さらに陸海軍の統帥権を有し、立法・行政・司法ならびに軍事の大権を総括したと言える。
 地方制度として当初は県を設置したが、のち庁制に改められた。一九二〇年には州制となった。地方行政機関は一貫して自主権と自治権に欠け、まったく上層部の命令を公的に処理する機関となっていた。

 典型的な警察政治

 日本植民地統治の初期、総督府は武装抵抗勢力を鎮圧して治安を維持するため、絶えず警察力を拡大し、全台湾に厳重な警察網と警察力を配備した。同時につぎつぎと警察の権限を拡大し、すべてを管轄するようになった。警察の権限は以下の通りである。
一、法律の執行と公共秩序の維持。
 たとえば公共の集会を監視し、軽度な刑事事件を審理し、アヘンの吸飲を取り締まり、小型金融業などを管理した。

二、地方行政府の一般行政業務推進への協力。
たとえば条例の広報、収税、戸籍の管理、戸籍調査などをおこなった。
三、先住民部落の管理。
 総じて、地方行政は警察が中心となり、いかなる業務にも警察が関与し、警察が台湾社会を統制する強大な力を有し、人々はその専制的な処置と台湾民衆の日常生活までへの関与を畏怖し、このため「典型的な警察政治」と呼ばれた。

 保甲制度と社会の統制

 清代における台湾の保甲制度は、主として行政府の防犯と地方の社会秩序維持のためのものであった。総督府はさらにこれを活用し、全面的な保甲制度を確立し、隣保責任連座制度を実施し、保甲を警察の補助機関とした。その構造は、十戸を一甲とし、十甲を一保となし、保には保正を、甲には甲長を置くものであった。
 保甲の主要な任務は、戸籍調査、住民出入りの監視、伝染病の予防、道路や橋の補修、義務労働などであった。同時に、保甲の青年男子で壮丁団を組織し、抗日分子の鎮圧と天災防止の補助にも従事した。このほか、統制のため保甲規約を制定し、保甲の構成員に規範を設け、保甲構成員の日常生活や行動まで完全にその統制下においた。
 保甲は一般行政業務を補助するほかに、総督府も日常的な保甲による協力を、纏足・弁髮の廃止、日本語の普及、風俗の改善、迷信の打破などの運動に活用した。あきらかに保甲は、総督府が人員を動員するための重要な機関となっていた。

 戦争と皇民化

 一九三七年、中日戦争が発生してから、日本は戦争の必要性から台湾で「皇民化運動」を推進し、日本語使用の奨励、日本式生活習慣の普及、日本姓への改名、日本神社への参拝などを進め、台湾人に日本国民としての愛国心と犠牲的精神を扶植しようとした。間もなく台湾人からも従軍者を募集し、最終的には徴兵制度まで施行し、その結果、台湾籍日本兵は総数二十余万人に達した。

【研究と討論】
一、日本の植民地統治時代、警察が行使した役割と特色はどのようなものだったろうか。
二、校区内で保正や甲長を経験した年配者あるいはその家族の人を訪ね、経験談を聞いたり、資料を見せてもらったりしてみよう。



  第七章 日本植民統治時代の政治と経済

植民地経済の発展

 経済発展の基礎確立

 日本植民地統治の初期、総督府は台湾を日本の経済発展に組み込むため、積極的に各種の経済改革と建設を促進した。

一、土地制度の改革: 耕地面積を調査し、新たに土地所有権を確定し、耕作地税収を大幅に増加させた。

  二、貨幣と度量衡制度の統一: 日本国内の制度に合わせ、新たな貨幣の発行と新たな度量衡機器の製造を統一した。

三、交通網の整備: 各地にくまなく郵便局を開設し、郵便・電報・電話の業務を執りおこなった。

自動車の通行できる道路を修築し、基隆から高雄にいたる縦貫鉄道を建設し、台湾の各地域間の交通運輸網を改善した。基隆港と高雄港を改築して近代的設備を整えた港に整備し、万トン級船舶の出入港を可能にした。このほか部分的に媽宮城(現在の澎湖馬公)を取り壊し、馬公港を建設した。

四、人口調査: 一九〇五年、台湾史上初の人口調査を実施し、全台の総人口は約三百十万人であった。一九一五年より五年ごとに定期調査をおこない、台湾の人口状況を確実に掌握した。

 農 業 改 革

 日本植民地統治の当初、総督府は「農業は台湾、工業は日本」の政策を立て、台湾を米と砂糖の生産地とするため、農業改革を積極的に推進した。

一、各地に農業研究機関を開設し、新品種や新化学肥料を提供するとともに、耕作新技術の指導にあたった。

二、各地に農業組合を設立し、新種の普及と新技術の教育に責任を持ち、農業用借款の貸付業務をおこなった。

三、水利工事を興して耕地・潅漑面 積を大幅に拡大した。そのうち最も有名なのは八田与一の設計・建設した嘉南大◆(大水路)であり、その潅漑面積は十五万甲(約十五 万ヘクタール)に及んだ。

 米の増産と砂糖王国の樹立

 農業改革により、水田面積と二期作の耕地は不断に増加し、米の産出量は激増の勢いを示し、とくに一九二二年、蓬莱米栽培の成功は、台湾に米生産の画期的発展への時代をもたらした。総督府の強制的な推進の下に、蓬莱米は急速に全台湾に普及し、米の生産量は大幅に増加して大量に日本に移出された。

 台湾は砂糖の主要な生産地であり、このため総督府は台湾糖業の改革に尽力し、日本国内の需要に応じようとした。甘蔗栽培に改良が加えられてからは、単位面積の産出量は大幅に増加し、作付け面積もまた拡大していった。

 日本植民地統治からすぐ、総督府は製糖産業の近代化に尽力し、資金援助の実施、原料採取の地域指定、市場の保護といった三大措置をおこない、日本の新興製糖業資本家を支援し保護した。このため、日本の資本家は競って台湾に投資するようになった。製糖業は台湾を最も代表する産業となり、その生産量は絶えず増加し、最盛期には百五十万トン近くにも達し、台湾を世界的な砂糖王国の一つとなした。

 工業化への進展

 日本植民地統治時代、台湾経済は農業を中心とし、工業は長いあいだ農業に付随し農産品の加工が主たるものとなっていた。一九三〇年代より日本は華南や南洋を進出目標とした南進政策の必要性から、総督府は台湾の工業化政策を推進するようになり、軍需に関連する基礎的工業を発展させ、台湾を日本南進の補給基地となした。

 工業化の結果、農産品加工業の継続的発展のほか、化学・金属・機械工業など重化学工業が顕著に成長し、台湾を半農業半工業社会に転換させた。

【研究と討論】

一、日本植民地統治時代、米と砂糖 の生産量はともに増加したが、米と砂糖の生産数値を元に折れ線グラフを作成してみよう。

 ●米生産量(単位:一万ヘクトリットル)
  一九〇一年   五五〇
  一九一〇年   七六〇
  一九二〇年   八七〇
  一九三〇年  一、三三〇
  一九三八年  一、七七〇

 ●砂糖生産量(単位:一万トン)
  一九〇二年    七六
  一九一〇年   二一六
  一九二〇年   二六三
  一九三〇年   六三七
  一九三九年  一、二八二

二、各自の県・市内で日本植民地統 治時代に建設された郵政、電信、交通設備、農業研究機関、農産品 加工工場などを調査してみよう。




  第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

は じ め に

 日本の植民地統治時期の台湾の教育、学術は、植民政策の貫徹に主眼が置かれた。教育は特に初等教育と職業教育に偏重され、学術は熱帯医学と地域研究に重点が置かれた。 この時期、人口は激増し、社会は変遷し、風俗習慣も大きく変化した。たとえば、纏足から開放され、断髪が普及し、時間厳守、法律遵守、近代的衛生観などが確立された。一九二〇年代から、新知識人が十余年にわたり社会運動を展開し、民衆の知恵を啓発し、政治改革と農民、商工業者の待遇改善を要求した。

第一節 教育と学術の発展

 公学校を主とした教育施設

 日本の植民統治時期、総督府は植民地政策貫徹の道具として、西洋の新しい教育制度を確立し、差別待遇と分離政策を原則に、初等教育学校を主な施設(注@)として、日本語を最重要視した六年間の教育をおこなった。公学校の数は不断に増加し、一九四〇年には学齢児童の入学率は六〇%近くに上った。一九四三年に正式に義務教育が実施され、四五年には入学率が八〇%に達した。

 日本の植民地統治の初期に、総督府は日本語普及政策を確立し、学校教育を通して浸透を図ったほか、社会教育を通して日本語普及運動を展開した。一九三〇年代からは、日本語講習所が普及し、未就学者に対して簡単な日本語教育が施された。当時の官報統計によると、日本植民統治末期、日本語を理解できた民衆は七五%を超えていた。

 しかし、台湾人にとっての日本語は生活言語とまでは言えず、単に台湾が「二カ国語を話す」社会になっただけであった。台湾人は一貫して、日本語を外国語と見なし、日本語を身につけたからといって同化したわけではなかった。だが、日本語は台湾人が現代知識を吸収するための主要道具となり、台湾社会の現代化を促進することになった。

実用重視の中等以上の教育

 中等教育に関して、総督府は当初、教育期間を半年から二年間とした職業訓練所を設立し、初級技術者の育成を図った。一九一九年以降、各地に相次いで一般中学が設立されたが、総督府は技術労働者に対する需要に応えるため、引き続き職業教育を偏重し、基礎技術者を再び日本国内に依存しなくて済むよう、さらに二年教育の職業予備校を大量に増設した。 総督府の植民統治の下、初期の頃は台湾人子弟が人文学科を学ぶことを奨励せず、教師を育成する師範学校と医師を育成する医学校に重点を置いた。教師と医師の社会地位は比較的高く、長期にわたり熾烈な入学競争が展開された。

 高等教育は、医学校のほかにも一九一九年以降、農林、工業、商業の専門学校と、台北帝国大学(現在の国立台湾大学)が設立されたが、台湾人の学生の割合は非常に低かった。台湾人の進学は難しく、台湾人で志のある者は、こぞって日本へ留学した。一九四五年までに日本に留学した学生は二十万人にのぼり、そのうち大学や専門学校の卒業生は六万人以上で、医学専攻者が最も多く、次いで法律、商業、経済専攻と続いた。留学は台湾の高等教育の不足を補うものとなった。

植民地政策に合わせた学術研究

 台湾を完全に掌握し、有効に統治と開発をおこなうため、日本植民統治の初期、総督府は多くの学者や専門家を招聘し、台湾の自然環境と社会について、科学調査研究をおこなった。その後、総督府は旧慣調査会や研究所などの専門機関を設立し、台湾の伝統制度、風俗習慣、医学衛生、産業などの調査をおこなった。一九二〇年代から、高等教育施設は日増しに完備され、学術研究の中心となっていった。

 この時期、台湾の学術研究は植民政策に合わせて発展し、近代台湾の人文、自然、応用科学研究の基礎が確立された。たとえば、医学ではペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの熱帯伝染病原菌が究明されただけでなく、それらに有効な予防・治療もおこなわれ、台湾はアジア熱帯医学研究の中心に数えられるようになった。また、地域研究では、台湾から華南、南洋へと研究範囲が拡大され、台湾が日本の華南、南洋研究の中心となった。

【注釈】
@公学校:台湾総督府は差別待遇、分離政策の原則に基づき、台湾の教育制度を確立し、初等教育は台湾在住の日本人、台湾人、原住民に対して、それぞれ小学校、公学校、蕃人公学校(または蕃童教育所)などを設置したが、各々の教育年数、カリキュラム、教科書などはすべて異なっていた。

【研究と討論】
一、日本植民統治時期の台湾の教育について話し合おう。
二、地域内に日本植民統治時代に設立された学校があるかどうか、調査してみよう。


  第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

第二節 社会の変遷

人口の激増

日本の植民地統治時期、総督府は熱帯伝染病に対し、有効な予防・治療をおこない、公衆衛生を強化し、交通、産業、教育などを改善した。このため、台湾の人口は長期にわたり高い出生率を維持し、死亡率が大幅に低下した結果、人口は不断に増加した。一八九六年当時の人口は約二百六十万人で、一九四三年には約六百六十万人(在台日本人を含む)にまで増加した。優に二・五倍も増加したわけで、その増加速度は世界でもトップであった。(注@)

纏足追放と断髪の普及

 日本の植民地統治の初期、総督府は、纏足と弁髪、アヘンの三つが台湾社会の悪習であるとみなしていた。しかし、総督府はそれらを一気に禁止するのではなく、学校教育や新聞、雑誌などを通じて、纏足追放と断髪を奨励していった。

 一九〇〇年、黄玉階が「台北天然足会」を創設し、その後、各地の有識者からなる「解纏会」、「断髪会」、「風俗改良会」などが設立され、自らがその手本となり、纏足追放と断髪を啓蒙した。その後十余年間、それらの改善の風潮は徐々に高まり、総督府はこの勢いに乗じて、保甲制度を利用した全面的な纏足禁止と断髪を推進した。また警察の監督の下、保正、甲長が各戸を訪問し、纏足と弁髪者の数を調査し、断髪大会などを挙行して改革気風を醸成し、ついに纏足追放と断髪の目的を達成した。

 纏足追放と断髪は、女子の生産力を大幅に増加させ、経済発展に大きく寄与した。例を挙げると、簡便な衣服の生産が民衆の気風を変え、新しい服装や靴、帽子産業が勃興した。審美観も徐々に変化し、その後、再び纏足が尊ばれることはなかった。

時間厳守の観念の養成

 総督府は、週制と標準時間制度を台湾に導入し、官庁、学校、工場では就業と休息の規則が制定され、勤労者や学生に対し、厳格な時間遵守を要求した。具体的には、出・退勤時にはベルを鳴らし、時間を厳守させたほか、学校では遅刻や早退を厳しく取り締まった。また、鉄道・道路においては時刻表を作成し、乗客に時間通りに乗車してもらい、出発と到着時間を厳守させた。

 一九二一年から、日本国内に倣い、毎年六月十日を「時の記念日」に制定し、官庁、団体などを通して、講演会や音楽会などを挙行し、ポスターの掲載、チラシ配布などを通じて時間の重要性を説き、時間厳守、時間重視の精神を養わせ、民衆の日常生活において、時間の標準化と時間厳守の観念を確立させた。

遵法の精神の確立

 総督府は、警察と保甲制度を通して社会情勢を監視し、民衆の楽観的認識から犯罪を起こすことのないよう、犯罪防止と秩序維持を徹底的におこなった。 同時にまた、学校や社会教育を通して、近代の法治観念と知識を注入し、秩序と法の尊重を学ばせた。司法は公正と正義を維持し、民衆の信頼を獲得した。これにより、民衆は秩序を重視し規律を守る習慣を養い、遵法の観念を確立した。

近代的衛生観の確立

 日本の植民地統治の初期、総督府は積極的に近代的公衆衛生と医療制度を確立した。例を挙げると、水道設備を完備し、民衆に浄化した飲料水を供給したほか、都市の下水工事を再整備した。また、各戸の門前にはごみ箱を設置させ、規則に則った廃棄物処理がおこなわれた。一方、保甲組織を通して、定期的に地域環境の清掃活動を実施した。また、予防注射、隔離消毒、ネズミの捕獲作業、血液検査の強制、薬品支給などの防疫活動をおこなった。

 このため、ペスト、マラリア、コレラ、腸チフスなどの伝染病を有効に予防し、台湾人の医療衛生観念と習慣を改めさせた。具体的には、住宅建設において通風、採光、トイレの設置に注意が払われ、また予防注射が接種され、入浴やトイレ後の手洗いが習慣化された。このほか、地面に唾・痰を吐いたり、ごみを捨てたりなどを戒め、定期的に各家庭で大掃除を実施させ、地域の清掃活動への参加を呼びかけた。

【注釈】

@一九三〇年から四一年の間、台湾の人口の年平均増加率は二・五%で、世界主要国の二〜十倍に相当し、世界一位であった。

【研究と討論】

一、台北天然足会会報に掲載された次の「俗諺勧解纏足歌」を読み、下の設問に答えてみよう。

  上蒼創造人、男女脚相同。
  算是天生成、好走又好行。
  可惜◆父母、看作纏脚好。
  著縛即是娘、無縛不成様。
  女子未暁想、不過看世上。
  別人此号様、出在◆◆娘。
  老母心肝残、脚帛推緊緊。

 @当時なぜ纏足追放が鼓吹されたか。

 A女子の纏足を決めたのは誰か。誰が足を縛って(纏足して)いたか。

二、校区内のお年寄りを訪ね、日本植民地統治時期におこなわれた地域清掃活動の状況について聞いてみよう。


  第八章 日本の植民地統治時期の教育、学術、社会

第三節 社会運動

政治改革の要求

 台湾住民による武装抗日運動失敗後、一九二〇年代から新知識人が団体を組織し、集会や講演、請願、抗議などの合法的手段で、十余年にわたる社会運動を展開した。彼らの最大の主張は、不合理な植民地政治に対する改革要求であった。

 一九二一年から三四年にかけて、林獻堂らの指導のもと、台湾人は十五回もの署名請願をおこない、民権の取得、自治組織「台湾議会」の設置、議員の民選を訴えた。しかし、日本政府はそれを顧みず、受け入れようとしなかった。 他方で、蒋渭水率いる台湾民衆党、蔡培火や楊肇嘉らの組織する台湾地方自治連盟などの政治団体は、完全な地方自治の実施、つまり公民による地方首長と民意代表の選出を要求した。徹底した啓蒙、宣伝、請願により、総督府はある程度譲歩せざるを得なくなり、一九三五年には地方制度を改革し、もともと地方の民意代表はすべて官により選出されていたが、半数を民選とすることに改め、規定の資格をもつ男性に選挙権と被選挙権が与えられた。またこれらの運動は、自治、普通選挙、参政権などの民主政治の基本概念を社会に普及させた。

民衆の啓蒙

 一九二一年、有識者により設立された台湾文化協会は、林獻堂を会長に据え、台湾民報を刊行、各種文化活動を展開し、台湾文化の向上に尽力し、民衆の知恵の啓蒙と、民族意識の覚醒、社会概念を強化した。その主な活動は以下のようであった。

1.各市や村に閲読所を開設し、一般民衆が閲覧できるようにした。
2.各種講習会を開催し、歴史文化、近代法律や医学、薬学、衛生などの新知識を広めた。
3.夏期学校を開校し、憲法、科学の概念、基本的衛生知識、哲学などの現代知識を説いた。
4.文化講演会を各地で巡回しておこない、新知識の伝授、植民政治に対する批判、社会の悪習、風俗に対して検討を加えた。

 このほか、文化劇の地方巡回、映画放映、音楽会などが挙行され、民衆の評判も上々で、これらに参加する住民の数も非常に多かった。このような活動は、就学できなかった民衆に新しい知識を与える好機となった。

農民、労働者に対する待遇改善

 一九二〇年代中期、農民と労働者は別々の団体を組織し、総督府や地主、雇用主らに対し、集団抗争を展開した。農民団体は請願、交渉、地租の拒否、訴訟などを通して、製糖工場の安価な甘蔗買い取り価格に対して抗議、地租の引き下げを要求し、地主の地租引き上げと耕地回収に対して反対した。労働者の団体はストライキ、サボタージュ、談判などを通して、賃金の引き上げを要求し、雇用主による賃金の引き下げと任意解雇に反対し、作業条件の改善などを要求した。

 このような集団抗争は、総督府に対し少なからず圧力となったが、農民や労働者による一致団結には至らなかったため、抗争はあまり多くの成果をみなかった。

【研究と討論】

一、台湾文化協会はいかにして民衆を啓蒙したか話し合ってみよう。
二、日本植民地統治期に社会運動に参加したことのある、校区内のお年寄りや家族を訪問してみよう。 




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