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zoom RSS 総督府が憎まれた理由 

<<   作成日時 : 2007/02/07 23:06   >>

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総督府が憎まれた理由を発見 | HOT! テーマトーク

No.499237 投稿者: mikechan3 作成日: 2007-02-07 21:52:31


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サイトー・マコト(斎藤実):第3代・6代総督
顔立ちは整っているが、明らかに怖い!(ヤクザの組長に見えてしまう。)こういう軍人に何か言われたら、絶対にNoと言えないだろうな。



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ウガキ・カズシゲ(宇垣一成):第4代総督
顔が宇宙人!多分顔だけで相当損していたのでは?スキンヘッドが迫力を増している。



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コイソ・クニアキ(小磯国昭):第9代総督
非常に凶悪そうに見えてしまう。この人も誤解を招きそう。

尚、他の総督は結構ハンサムであった。



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ハセガワ・ヨシミチ
格好は良いが、生え際が危険。



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アベ・ノブユキ
気の良い叔父さん?



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テラウチ・マサタケ:初代総督
意外に怖くなさそう。


http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=567245





新鮮な視点ですねw

確かに、宇垣一成は人相悪すぎ!w


当時の台湾総督と調べてみると、韓国統監・朝鮮総督には相当地位の高い政治家・軍人が任用されていることがわかります。
当時の日本政府は台湾に比べ、朝鮮を重視していたのでしょうね。




寺内正毅(元帥陸軍大将 後に内閣総理大臣 従二位勲一等功一級伯爵) 
1910年 - 1916年
武断政治

長谷川好道(元帥陸軍大将 従一位大勲位功一級伯爵)
1916年 - 1919年
三・一独立運動に対し軍を動員し鎮圧した事等、武断政治として批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの僅か3年で斎藤実に交替

斎藤実 (海軍大将 後に内閣総理大臣 従一位大勲位子爵) 
1919年 - 
文化政策を推進

宇垣一成 (陸軍大将 勲一等功四級)
1931年 - 1936年

小磯 国昭 (陸軍大将 後に内閣総理大臣 従二位、勲一等、功二級)
1942年 - 1944年

阿部 信行 (陸軍大将 後に内閣総理大臣)
1944年  - 1945年
米軍に護送され本土へ引き揚げ






ちなみに、こちらは台湾総督 (全員ではありません)


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桂太郎 通称"ニコポン宰相"
1896年6月 – 1896年10月



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乃木希典
1896年10月 – 1898年2月



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兒玉源太郎 (こだま げんたろう)
1898年2月 – 1906年4月

台湾での日本統治の評価が高いのは、兒玉の統治期間です。

それは、兒玉が登用した後藤新平の存在が大きい。



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後藤新平

兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。
そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。
こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。
よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

台湾の調査事業
まず、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任した。
また同じく京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。
これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

また、開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが彼の手法であった。
アメリカから新渡戸稲造をスカウトする際には、病弱を理由に一度は断られるが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させている。
スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。
また、他にも中村是公など、後藤の生涯を通して有力なブレーンとなった人物もこの時期に招聘されている。


アヘンの根絶
また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンの性急な禁止には賛成せず、アヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。
総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである。

こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きいが、一方で植民地支配に対する抵抗への徹底した弾圧政策など『鞭』の側面を強く指摘する声も少なからずある。


wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3



台湾は1919年の田健治郎から文官統治時代に入ります。
1936年からは再び武官が総督に就任しますが、戦争体制へと向かっていった様子が見て取れます。



台湾と朝鮮。
その地理的位置、重要性から朝鮮半島には日本人も一生懸命になりすぎたのでしょうか。
朝鮮半島が地理的に重要でなければ、もう少し伸びやかな統治になっていたのでしょうか。
まぁ、彼の国の国民性から、誰が総督になっていても変わりは無かった気もしますが。。


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